弥生時代の政治・社会

弥生時代の政治・社会

弥生時代の政治・社会記事一覧

戦争大陸より水田稲作がもたらされ、稲作の知識に富む者を指導者とした集落(ムラ)が成立しました。しかしやがて稲作に適した土地や水利を巡り、ムラ同士で争うようになりました。勝ったムラは負けたムラを吸収し、さらに大きな共同体クニが成立しましたクニ同士の戦争も繰り返され、共同体の統一が進んでいきました。祭祀クニの指導者は巨大な権力を持ち、死んだ際にはその地位に見合った大きな墓(墳丘墓)が作られました。高い...

弥生時代を象徴する歴史的史料といえば、金印をイメージする人は多いと思います。金印は、古代中国で作られた純金製の王印で、中国はそれを友好関係を持った周辺諸国に配る習慣があったのです。倭国(すなわち日本)の王もその対象でしたが、日本に贈られた金印は2つ存在します。関連記事:弥生時代の中国との交流一つ目の金印1つは建武中元(けんむちゅうげん)二年(57年)に、奴国の王が、後漢に朝貢したさいに、光武帝より...

日本に弥生時代の文字記録は存在しませんが、中国の歴史書には、当時の日中交流の記録が残されています。中でも重要なのは漢書地理志(かんじょちりし)・後漢書東夷伝(ごかんじょとういでん)・魏志倭人伝(ぎしわじんでん)の3つです。これらの歴史書の中にある「倭国(わこく)」というのは日本のこと、「倭人(わじん)」というのは日本人のことです。漢書地理志(かんじょちりし)紀元前1世紀頃の日本について書かれた班固...

水田稲作を生活の基盤とする弥生社会は紀元前10世紀頃幕を明けました。しばらくは北部九州にとどまっていた水田稲作は、紀元前4〜3世紀頃、日本列島全体へと急速に広がっていきます。この時期、高度な稲作技術を持った渡来人が、朝鮮半島・中国大陸より大挙したためです。当時の中国大陸はいくつかの国が支配しており、おのおの皇帝を立て、他国を牽制していました。渡来人はそんな中国大陸の覇権争いから逃れるために海を渡っ...

縄文時代末期、気候変動により日本は寒冷期に入りました。すると自然に依存した狩猟・採集中心の生活スタイルは衰退し、自分で食料を生み出す水田稲作の需要がでてきます。効率的・安定的な稲の収穫には人手が必要ですから、いわゆる集落(ムラ)と呼ばれる人々の集まりで暮らすようになります。水を運んできやすい平野、盆地、河川流域などに定住していました。クニの発生自然に依存することなく、自給自足で生計を立てる農耕社会...

弥生時代は、集団と集団の大規模な抗争が日本で初めて観測された時代です。戦争発生までのプロセスは、おおむね以下の通りです。農耕集団の成立農地の開発・拡大土地や水利を巡る他集団との対立政治的解決手段として戦争勃発1.農耕集団の成立大陸から日本に水田稲作が伝わると、効率的・安定的な稲の収穫の為に、人々は集団で暮らすようになりました。稲作の知識を持つものを中心とした政治的共同体(ムラ)が成立します。2.農...

弥生文化は中国大陸、朝鮮半島から日本に移住してきた渡来人によりもたらされたものです。水田稲作、金属器、支石墓、環濠集落など大陸の先進技術を日本列島に伝え、縄文人の生活に大変革をもたらしました。農耕社会の成立と戦争弥生時代に起きた最も大きな変化として、農耕社会の成立とそれにともなう戦争の発生が挙げられます。このことは日本より早く農耕社会を成立させた中国大陸・朝鮮半島より、渡来人の流入が加速したことと...

貨泉と呼ばれる中国貨幣が、福岡市元岡遺跡、鳥取市青谷上寺地遺跡から出土しています。貨泉は中国王朝の新(紀元後8年〜23年)で使われた硬貨で、中国との交流の中で、日本に流入したものと考えられています。「新」時代は非常に短期間で終ったため、貨泉ともに出土した土器については製作された年代の目安がつけやすいです。中国貨幣は、主に交易基地となった海村で出土しており、魏志倭人伝に記された一支国(いきこく)の王...

日本で本格的に文字が使われ出したのは5世紀以降(古墳時代)とされています。つまり紀元前10世紀〜紀元後3世紀の弥生時代に文字の使用はありませんでした。文字の概念は伝わっていた?弥生時代末期(3世紀頃)に漢字そのものは伝わっており、それが確認できる弥生時代の遺物としては、印面に「漢委奴国王」と刻まれた金印が有名ですね。また文字が刻まれた土器や貨銭の出土も珍しくなく、少なくとも文字という存在は認知され...

弥生時代は農耕社会。稲作の知識を持つものが権力を握り、収穫物の取り扱い、祭祀、戦争などあらゆることを統括しました。そして支配する者とされる者という身分の差が顕在化するようになります。弥生時代の終わり頃の様子が書かれた『魏志倭人伝』によれば、倭国の邪馬台国には、王(おう)・大人(たいじん)・下戸(げこ)・生口(せいこう)という身分階級があったとされます。弥生時代の身分制度王クニの最高権力者。弥生時代...

弥生時代は、日本で人口が爆発的に増加した時代です。出土する人骨が急激に増えているのです。その原因について、主な説は2つあります。1.稲作の発達による食の安定。2.大陸からの大量渡来。より有力な説と考えられているのは1の方です。縄文時代というのは採集や狩猟といった自然依存型の生活スタイルだったので、気候変動の影響で人口は増えたり減ったりしていました。26万人の人口が8万人まで減った時期もあります。し...

日本では縄文時代から、自然のあらゆるものに霊が宿るとする自然崇拝が信仰され、神霊を祭り、飯や酒など供物が捧げる行為が慣習となっていました。祖先崇拝弥生時代の遺跡からは、墳丘墓と共に豪華な副葬品が多数出土しており、祖先を敬う祭祀が頻繁に行なわれていた痕跡が確認できます。大規模な墳丘墓の周囲で祭祀が行なわれたと推定されています。政治のことを政(まつりごと)とも呼ぶのは、クニ・ムラの統治者が、政治だけで...

祭祀とは神や霊に祈りや感謝を捧げる儀式のことです。祭祀は縄文時代より行なわれていましたが、農耕社会の弥生時代になると、「穀霊信仰」にもとづく祭祀が活性化しました。弥生時代終わり頃には集落の中心に大規模な祭殿が出現します。関連記事:弥生時代の宗教の特徴弥生時代は文字による記録がないが、弥生時代の青銅器や木製品、土器などに祭祀の様子が描かれていることがあります。(登場する頻度が多いのは、シカ、建物、人...

そもそも「婚姻を結ぶ」という概念が弥生時代にあったのか?という疑問がありますが、この時期、中国にはすでに婚姻文化が存在したので、弥生社会でも広まっていた可能性はあります。弥生時代の次にあたる古墳時代には「妻問婚」という婚姻の1種(夫が妻のもとに通うというもの)が一般化しています。今と違って、古代の婚姻は女性主導だったようですね。女性が男性の家に嫁ぐのではなく、女性の家族が男性を迎え入れるわけです。...

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