弥生時代の中国との交流

弥生時代の中国との交流

弥生時代の中国との交流

日本に弥生時代の文字記録は存在しませんが、中国の歴史書には、当時の日中交流の記録が残されています。中でも重要なのは漢書地理志(かんじょちりし)・後漢書東夷伝(ごかんじょとういでん)・魏志倭人伝(ぎしわじんでん)の3つです。これらの歴史書の中にある「倭国(わこく)」というのは日本のこと、「倭人(わじん)」というのは日本人のことです。

 

漢書地理志(かんじょちりし)

紀元前1世紀頃の日本について書かれた班固による歴史書です。日本が登場した、始めての海外文献として有名です。

 

夫(そ)れ楽浪海中(らくろうかいちゅう)に倭人あり、分かれて百余国(ひゃくよこく)となる。歳時を以て来たり献見(けんけん)すと云う。

⇒朝鮮半島の海の向こうに倭人あり。百余国に分かれている。定期的に漢に朝貢(ちょうこう)していた。(貢ぎ物を持って挨拶にいっていた)

 

後漢書東夷伝(ごかんじょとういでん)

1〜2世紀頃の日本について書かれた歴史書です。福島県で発見された金印に関する記述があることで有名です。

 

主な記述1.
建武中元(けんむちゅうげん)二年(57年)、倭の奴国、奉貢朝賀(ほうこうちょうが)す。使人自ら大夫(たいふ)と称す。倭国の極南界なり。光武(こうぶ)賜ふに印綬を以てす。

⇒57年、倭の奴国の使いが朝貢にきた。使いを自らを大夫と名乗った。光武帝は奴国王に金印を贈った。

 

※印綬とは金印のことです。1784年志賀島(福島県)で発見されました。印面には「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」と刻まれています。

 

主な記述2.
安帝(あんてい)の永初(えいしょ)元年(107年)、倭国王帥升(すいしょう)等生口百六十人を献じて請見を願ふ。

⇒107年、倭国の王帥升が、奴隷160人を朝貢しにやってきた。

 

主な記述3.
桓・霊の間(2世紀後半:桓帝、霊帝の頃)、倭国大いに乱れ、更相攻伐して歴年主なし。

⇒2世紀後半、倭国は大いに乱れ、統治者たるものがいなかった。

 

魏志倭人伝

弥生時代末期の3世紀頃の日本について書かれた歴史書です。女王卑弥呼が治める邪馬台国について書かれた歴史書として有名です。漢書地理志が書かれた時代から、国の統一が進んだことがわかります。

 

帯方郡の海の向こうに倭人あり。三十国に分かれる。

⇒帯方郡(204年、楽浪郡の南部を分割して設置。現在のソウルあたりの場所)の海の向こうに倭人がいる。30国に分かれている。

 

魏志倭人伝にみる邪馬台国
  • 卑弥呼が鬼道(呪術:まじない・占い・シャーマン)を使って統治した。弟がサポート。
  • 景初二年(239年)6月、使いを送り魏に朝貢し、親魏倭王の称号・金印・銅鏡100枚をもらった。(卑弥呼の金印は見つかっていない)
  • 租税制度や市が存在
  • 身分制度…王/大人/下戸/生口
  • 卑弥呼の死後、男の王を立てたが国がまとまらず内乱が勃発。卑弥呼の宗女(一族の女性、姪っ子)・壱与(いよ)(台与)を擁立。⇒内乱収束
  • 邪馬台国の所在地については北九州説と畿内説がある。
トップへ戻る