弥生時代の食事・稲作

弥生時代の食事・稲作

弥生時代の食事・稲作記事一覧

縄文時代は狩猟・採集・漁労を生活の基盤とし、木の実や鳥獣の肉を主食としていました。しかし縄文時代晩期に寒冷化がすすみ、自然から得られる食料が激減。日本人は自ら食料を生産する必要性が強まり、一部地域にはすでに伝わっていた水田稲作が急速に普及していきました。日本人の主食は米を始めとした穀物にシフトしたのです。魏志倭人伝に見る弥生人の食事弥生時代後期の倭人(日本人)の食事については、魏志倭人伝に詳細が描...

弥生社会は水田稲作を軸とした農耕社会ですが、米の収穫量は天候や土地の質にも左右される上、収穫時期は限られるので、稲作だけに依存していたわけではありません。縄文時代から続いていた狩猟・採集・漁労も行なわれ、イノシシやシカなどの肉、魚や貝などの海産物、クルミ、ドングリ(特に多く出土)などの木の実、カキやモモなどの果物なども副食として食べられていました。弥生人の肉食弥生人が食肉としていたのは、この時代の...

大陸からの水田稲作の伝来をもって弥生時代の幕は開けました。水田をつくり、稲を植え、収穫した穀物を高床倉庫などに蓄えるようになりました。ここまでは誰もが学校で習うことだと思います。しかしここからもう1歩進んだ「収穫した米をどのようにして食べていたのか」ということは意外と知られていません。この記事ではその点にフォーカスしていきます。弥生時代の米の調理法一般的に、お米の食べ方には、水蒸気を利用した「蒸す...

漁労は縄文時代さかんに行なわれ、海岸付近に住む人々の生活基盤になっていました。各地で発見される貝塚から、貝類、魚類、甲殻類など様々な海産物を食していたことがわかっています。しかし弥生時代になり貝塚の出土数は激減します。これは大陸から水田稲作がもたらされ、人々の生活基盤が漁労から農耕へとシフトしたためです。ただ漁労という食料獲得手段を全く放棄したわけではありません。海岸像の集落からは、貝塚や銛(もり...

おにぎりは日本の伝統食ですね。ご飯を握って具材を詰めて海苔を巻くだけという非常にシンプルな料理ですが、炭水化物なので腹持ちが良い足りない栄養価を具材でカバー塩を振ることで殺菌効果を付加保存性に優れるので出先で食べる携行食に最適海苔をまくことで米が手につかない海苔自体も栄養価に優れるなどなど栄養バランスと効率性を兼ね備えた完全無欠といっていい日本のソウルフードです。そんなおにぎりですが、起源は弥生時...

おせちは正月に食べる日本の伝統的な祝いの料理です。節日(せちび)のうち最も重要な正月に食べるため、正月料理を指す言葉として「おせち」と呼ばれるようになりました。そんなおせちですが、原点は弥生時代にあるといわれています。おせちは弥生時代の祭祀が元?弥生時代より水田稲作が定着し、米を始めとした穀物を主食として食べるようになりました。豊作を神に祈る穀霊信仰が活発化し、毎年秋の収穫の後は、集落あげての収穫...

水田稲作の大まかな流れは、水田をつくる⇒稲を育てる⇒収穫する⇒脱穀する⇒貯蔵する⇒炊いて食べる…というもので、基本的にこの流れは古今通じて変わりません。しかし弥生時代に、細かい手法や農具の刷新が起こり、それが現代で行なわれる水田稲作の手法にも通じています。なので具体的にどのような変化が起こったののかをしっかり抑えておく必要があります。前期の稲作の特徴水田の種類:湿田(低湿地を利用した稲作)農具:木...

弥生時代の水田稲作、前期と後期の違いは何かにて、弥生時代前期から後期に起こった稲作手法の変化の1つに、湿田から乾田への変化を挙げました。湿田とは、沼地のような1年中ジメジメした土地を利用した稲作のことです。それに対して乾田とは、水路をつくり川などから水を引いてくること(灌漑)で、乾燥した土地を湿地に変えて行なわれる稲作のことです。湿田から乾田へ変わった理由湿田は、すでにある低湿地を農地に流用すれば...

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